六本木ヒルズ

昨日仕事で六本木に行って来た。六本木にいくと毎回森タワーが目に入り不快な思いをしてしまう。あのmasssiveなビルはどうも生理的に受け付けない。こぞってあそこに行く人の気が知れない。のは私だけでしょうか。他にもいるはずと思うのだが。

ということで今回レム・コールハースという建築家の本(というか雑誌というか)contentにあるコールハース自身の六本木ヒルズについての文章を訳出してみました。コールハースの文章ははっきいってわかりづらい。シニカルで婉曲な表現が多いのですが、その婉曲な表現をなるべく意訳せずに、そのまま訳すようにしてみました。のでわかりにくいのは訳ではなくて原文です、と最初に言い訳しておきます。


21世紀の夜明けに、莫大な予算をかけ、国際的な企業建築のエリートによって、国際的に有名で荘重な人物としてしられている、nick serota, glenn lowry, wenzel jacob,
alfred pacquementなどなど、の援助のもと、のどかな都会の一区画(このビルの存在自体がそれを消し去っているのだが)という意味で名付けられたこのビル、うわべだけの熟慮をもって,20世紀建築の悪い点すべてを総括し備えたこのプロジェクトが現実化されたことを考えると非常に恐ろしい。このビルはなんの意図も持たず、圧倒的な量感で作り上げられただけのものである。高くて、太く,tempietoが頭にのっかっている。このtempietoは これまでは特殊な状況であった(美術館スペース)が一般的で新しい空間のカテゴリーになった事を表している。そのカテゴリーとはミニマリストの大きなでこぼこの岩床の厚板の使用によって特徴づけられ、もはや宝物の箱であることを装おうこともなく、希望に溢れたものを捕らえるただのシニカルな罠になっているものである。
それは精巧に作られた戦争作戦会議室で数年に渡って計画された。その部屋では頭上のモバイルカメラが、都市全体の誇大妄想的な模型の非常に微細なところにまでいたる詳細を急降下して襲い(土地開発業者の射撃訓練)、これから先、いかなる構造物の衝撃もリアルタイムですべてのアングルから記録される(射撃の的は保証されている)。

その外観はいくつかの理由で意義深い。
それは、健忘症が、私たちが安全に処分したと思っていた、間違い、犯罪、愚行を効率よくリサイクルするために役立つ狂気のレパートリーの重要な一つであることを証明している。私たちはそれらにハンマーを降りおろし片を付けたと思っていたが、今またそれが復活してきたようだ。私たちは建築のゾンビーに対峙していて、「night-of-the-living dead」の世界の極致にいる。

一体どうやったらそのような邪悪な計画が、パキスタンがウランを探すのとおなじくらい固執して、なんの障壁もなく浮かび上がるだけでなく、最先端のアーティスト、思想家によって考えだされ、飾られた貯蔵庫から実際に生じて来るのだろうか。

またそれは、構造自体の完璧さががいかにして、搾取を促し、寛容さの完全な欠如を隠すニヒリストの道具になるかを、目が眩むくらいはっきりと示している。

さらに極端な状況で、私たちは監禁、もっといえば皆殺しになんとか抗っている犠牲者の弱さに驚く一方、私たちは可愛い色で洗練された豪奢な細部装飾のなかをエレベーターで通り抜ける。そのエレベーターは一見、中心、無の頂点へのテレポーテーションを念頭に置いているようにみえる。この破城鎚の頂上から人はめそめそした泣き声が聞こえない状態で隔離され、屠場への道に向かっているこの都市を哀れに眺めているのである。これはグローバリゼーションの極致なのか、これが東洋なのか、これがわれわれの最善なのだろうか。この堕落に向かっている聖職から、私たちは中国にたいして懐疑的なのか。
しかしこのタワーは広い世界の中のほんの一部分である。世界の地上階はだんだんとjon jerdeに手渡されていく。

まだ途中です。tempeitoってなんでしょう こういったものがそうらしいのですが。 Content