ドキュメンタリーについて

以前ハルトムート・ビトムスキーアテネフランセで話したことには、「ドキュメンタリーは大きく別けて二種類ある。一つは撮影者が対象に積極的に働きかけて作るものと、もう一つは撮影者は対象に対して距離をとり、客観的な立場で観察するものだ」と。前者の例としてジャン・ルーシュ、後者の例としてフレデリック・ワイズマンを挙げていた。確か。そして前者の類いが自分は好ましいと思っているみたいなことを言っていた。
撮影者が対象に及ぼす影響というのは程度の差はあれど、不可避なもので、むしろそこには程度の差しかないと考える方が妥当であろう。ワイズマンの映画を見ると、そこにカメラが存在しているのか疑わしくなるほど対象になる人物達は自然に振舞っているように見える。が、そこにカメラが明らかにあることを知っていて、まったく自然に振舞う事などできるのだろうか。これは自然であるという状態の定義に関わってくる事にもなるのだが、逆に言うと、果たして現代の生活でカメラが目の前にあるというのはそれほど不自然で、非日常的な状態であろうか。非日常といってしまうと、ワイズマンの映画の題材はいわゆる非日常的なものが多いのだが、全くの生活とかけ離れた非日常ではなく、日常のすぐ傍にある非日常、日常の裏っ返しである。