le tombeau de daniele huillet

ダニエル・ユイレが死んだ
ストローブが特別賞を受賞した今年のヴェネチア映画祭で送ったFAXの文面通り、彼等の生には遅すぎた賞だった。



3つのメッセージ


1 この賞は、我々の死には早すぎ、我々の生には遅すぎた
とにかくも、マルコ・ミューラーの勇気には感謝している。でもこの賞から何を期待するか? 何もない。全く何も? いや、小さな復讐がある。宮廷の陰謀に対しての復讐ー『黄金の馬車』で言われたように。多数の悪党達に対しての。

何故パヴェーゼなのか?
何故なら彼はこう書くからだ。
コミュニストとはただそうなりたいということを意味するものでは無い。我々はこの国であまりにも無知すぎる。我々には無知でないコミュニストが必要だ。コミュニストの名を穢すことのない。

また、
かつて雨を降らせるためには篝火で十分で、収穫を守るために浮浪者を焼くことで十分だったのなら、何人の所有者の家が焼き倒され、何人の所有者が道端や、広場で焼き殺されなければならないのだろう。世界が正しくなり、我々が言いたいことを言えるようになるまでに。

パヴェーゼはならず者にこう言わせた。「ある日私はモーラのそばを通った。門の傍の松の木が今はない。」ヌートが答えた、「帳簿係が切り倒したんだ、ニコレットっていうあの無知な男が。浮浪者がその木陰で休んで、物乞いするからってさ、わかるだろう。」

またどこかでヌートは「彼の送って来た人生を考えると、彼のことを貧しい馬鹿だとは呼べないよ、それが役に立つかのように、、、まず、政府はお金とお金を守る人間を全て燃やすべきだよ。

幸運を


2 私はこの映画祭に何度か来ている

1回目 1954年、批評家としてやってきた。3つの映画について書くことにした
山椒大夫
『河と死』
『裏窓』
賞無し!
2回目 1963年(短編部門で)自分の最初の映画、『マホルカ=ムフ』(1962)とともに 賞無し
3回目 1966年 『妥協せざる人々』(1965)とともに。上映費用はゴダールによって負担された!
4回目 『アンナマグダレーナバッハの日記』とともに
5回目 1975年 『モーゼとアロン』(1974)(を含む)までの我々の全ての映画の回顧上映(ガンベッティによって望まれた)で。
映画芸術祭に”Quei loro incontri”でもって吠える獅子賞を獲得


3 加えて私は、これほど多くの公的、私的な警察がテロリストを探しているお祭りではお祭り気分でいられないだろう。私もテロリストであり、フランコ・フォルティーニにならって言えば、アメリカの帝国主義的資本主義が存在する限り、世界にはテロリストの存在が十分すぎることはないであろう。