下書き

かつてあなたは資本主義社会と共産主義社会の違いをこう表現しました。映画監督として、資本主義社会と共産主義社会で働くのは、ジャングルと動物園の違いと同じだ、と。これは、私の意見では現在のポスト共産主義世界にもあてはまる問題だと思う。人々は困惑していて、事実、ジャングルか動物園かどちらで生きるか決めないといけない。もし美や自由を求めるなら、ジャングルこそが生きる世界である。でもそこは危険で、蛇や鮫や虎、スカンク、蚊や蛭なんかと一緒に生きないといけない。安全に過ごしたいなら動物園で生きることになる。そこでは保護されている。もしあなたが羊でも、虎は襲っては来ない。そして毎日何か食べ物も与えられる。あなたは一生懸命働かなければならないが、それも檻の中でだ。そして素晴らしいことに、檻の中で過ごしながらジャングルの美を夢見ることが出来る。今現在起きていることは、檻が開放されて、皆が夢を追って出ていっている状況なんだ。そして突然、うん美しい、そう今ならどこへでも行きたいところにいけるし、やりたいこともやれる、でもどこへ行ったらいいんだろう。なんてこった、虎や蛇があちこちにいる。人間には元に戻っていきがちだ。そして多くの人々が動物園に戻りたがるのに驚くことになるだろう。彼らは自由のために対価を支払う準備が出来ていないんだ。彼らは自由でとは無償で、当然にあるべきと思っている。でもそういったことはないんだ。最悪なことだ。民主主義の礎とは自由報道にあると思う。可能ではないかもしれないが、自由な報道がこの世紀に渡って存在していたとしたら、ヒットラーや、スターリンは生まれなかっただろう。自由のためにとてつもなく高価な対価を支払わないといけないこのような人々はいなかったはずだ。何故なら彼らが最初に求めるのは新聞、ラジオ、テレビなのさ。


:あなたはプラハの春が起きたとき、アメリカに居ましたが、68年にプラハに戻ってきました。あなたが帰ってきたとき、その前とはなにが違っていましたか。


フォルマン:うーん、とても馬鹿げた状況だったよ、当時、アメリカでの最初の映画、Jean Claude Carriereの脚本にとりかかっていたんだ。4月に私たちはNYで書き始めたんだ。そしたらTV以外のものに集中できなくなったんだ。マーティン・ルーサー・キングが暗殺され、暴動やらなにやらおこって大変だったんだ。なんで、「どこかもっと静かなところへ行こう、そうだパリに行こう」といったんだ。そして5月にパリに着いたんだ。1968年のパリといえばわかるだろう。3週間もの間Jean Claudeを見なかったんだ。かれはバリケードに立っていたんだ。で、やっとかれをバリケードの上で見つけて彼の傷を手当てしてあげたんだ。いや、冗談。「じゃ、プラハに行こう、プラハなら落ち着いて静かだ」と言って、1968年の8月にプラハに到着したんだ。Jean Claudeは「ロシアが侵攻して来ないと思っているなんて愚かだよ、だれもそうなふうには考えていないよ」といったんだけど、私は「わからないけど、大丈夫さ、そんなことは起こらない」って言ってたんだ。


  :あなたはロシアが侵攻してくるって信じてましたか


フォルマン:Jean Claudeの言うことに耳は傾けた。私はそんなに政治的な人間ではないんだ。新聞や、政治欄を分析するなんて退屈でしないんだ。だから、ロシアがプラハに侵攻してきたとき、私はJean Claudeと一緒にプラハを去ってパリに行ったんだ。


  :では、ロシアが侵攻してきたと聞いた夜について教えてくれませんか


フォルマン:とても信じられなかった。私達はと一緒にピガールにいたんだ。パリの赤線地帯さ。そうだろ、まだそうだったんだ。そして私達はjean pierre assam 、jean claudeと一緒にバーで一晩過ごしたんだ。街角の小さなバーで売春婦と話していたんだ。実際無邪気に話していただけなんだ。深夜になって、jean pierreが酔っ払って、売春婦に普通の10倍くらいのお金を払ったんだ。そしたら彼女は義務を感じて、「私が彼の世話をするわ、冷たいシャワーを浴びさせて、そして、、、だって、お金払ってもらったから私、、、」OK、それじゃ、ってことで、彼女がJean Pierreを連れてったたんだ。そして私はJean Claudeと彼の家に行ったんだ。当時の彼のアパートはとても大きくて、10人もの人が住んでいたんだ。彼の義理の母、妻、妻の友達とかが何人かが別々の部屋に住んでいたんだ。そして寝ていたところ、
突然アパート中に電話のベルの音が鳴り響いたんだ。皆起きて、私は自分あての電話だとは思っていなかったんだけど、Jean Claudeが、「君に電話だよ、Jean Pierreから」と。「聞けよ、ラジオをつけるんだ、ロシアがチェコスロヴァキアを占領しているぞ」って。「やめてくれ、馬鹿な冗談は」といって、電話を切ったんだ。で、皆、寝に戻ったんだ。5分後また電話が鳴ってとったら、「ラジオをつけろ、聞くんだ!」っていうんだ。あの売春婦が彼の酔いをさまさせるのに、冷たいシャワーを浴びせ、ムードを良くするためにラジオをつけて音楽を流したんだけど、その音楽が突然止まって、アナウンスが始まったんだ。深夜2時とか2時半くらいなんだが、ロシア軍とソビエト軍チェコスロバキアを占領しているって。彼は寒さで酔いがさめていたんで、すぐ電話をとって私に電話してきたんだ。私は彼がまだ酔っ払っていると思っていたから、、、で何でこんな話してるんだっけ?


  :あなたはDubcekを信じていましたか、彼の改革を。


フォルマン:チェコのことわざで、おぼれるものは小枝もつかむ、というのがあるんだ。当時のチェコ人はまさにこういう状態だったんだ。この小枝に希望を託して。今日、距離をおいてみると、彼は道徳的力を持っていなかったようだ。彼自身の中にはあったのかもしれないが、人々に向けては持っていなかった。それに何か事をおこなう権限もなかったんだ。ドゴールのような人物ではなかったのさ。、もしくはチャーチルのようでも。


  :わたしの理解では、あなたはかつてDubcekが中央委員会のビルから出てきたときに、その建物の前にいましたよね。人々が彼を拍手で迎えて、Novotnyがそのあと出てきて、皆彼に背を向けたんだ。覚えていますか。


フォルマン:いや、それは私じゃないよ


:そうでしたか?

フォルマン:いいや違う。

:じゃ、あなたの友達が、本そうに書いていたんだけど。

フォルマン:いや、

:じゃ、別の人物かもしれない

フォルマン:記憶はおかしなことをするもんだ。

 :じゃ、気にしないでください。だけど、68年、基本的にはあなたはDubcekに対して信頼をよせていませんでしたか、今から振り返ってみて。

フォルマン:それで?

 :で60年代には、

フォルマン:皆が彼に少し疑問を抱いていたんだ。彼の天使のような正直さでブレジネフや、ロシアの強硬派や特に裏切り者たちを説得できるとは思っていなかったんだ。

 :68年にチェコに帰ってきて、突然自由報道がなされるようになり、全てが公開され、いろん

なことが起こった。そして、Fireman's Ballが公開された。このときあなたはどう思いましたか。

フォルマン:おかしかったのは、それまで50年代には、人々は周りの様子をうかがいながら、誰かにつけられていないか気にしたり、西欧から新聞を持ってきた人がいても、それをポケットの奥に隠し持っていたんだ。で、60年代になると自由報道の高揚感の中で、人々は自由に話しながらもまだ周りの様子をうかがっていたんだ。