the optical unconcious

視覚芸術は目から、完全に目から産まれる
ジュール・ラフォルグ 「印象派


そして、ジョン・ラスキンについてはどうだろうか。ブロンドの巻髪と、ブルーの飾り帯とそれに合わせた靴、それになにより従順な静かさとしっかりした眼差しをもったラスキン。おもちゃを取り上げられた彼は、鍵束の間から漏れる光を愛で、床板の節に惹かれ、向かいの家の煉瓦を数える。彼はパッチワークの幼児フェティシストになる。彼は自分の遊戯に関して告白する。「絨毯や、ベッドカヴァー、ドレス、壁紙にみられるパターンが私遊びの主な材料だった。」この彼の子供っぽい慰み事が、後に彼の才能、素晴らしい才能になるのだ。このとても純粋で私心のない集中する能力を、マッツィーニは「ヨーロッパでもっとも分析的な頭脳」と呼んだのだった。このことはラスキンの耳にも入った。彼は慎み深かった。曰く、「ヨーロッパに関する限りは、自分でもその意見に同意したい。」と。

もちろん、ラスキンのことを笑うのは簡単だ。ヨーロッパでもっとも分析的な頭脳は筋立った議論を組み立てることも出来ないのだ。ヨーロッパでもっとも分析的な頭脳は『近代画家論』という、後に文学という名を得たなかで最もひどく構成された書物を書いた。冗長で、際限なく話しが脱線し、描写が多く、論理は尻切れとんぼで、次から次へと内部矛盾が続くのである。

それでもまだ、肉体的受容性、視覚の過剰な浪費をともなう子供のイメージは残る。私は彼が庭の小径に座り込み、膝と腕を曲げて舗道の石の間を蟻が群れをなして動いているのを見つめ、この卑小な活動を純粋に線形装飾に定着させている姿を想像する。これは眼差しのパターンに対する関係であり、眼差しの目的からの逸脱である。彼の少年っぽい海との関わりは、我々が眼差しのモダニスト的資質とのみ呼べるもののもう一つの例である。

彼曰く、「当時、何よりの喜びはただ単に、海を見る事だけにあったのです。私はボートを漕ぐ事も、ひとりで波止場に近づく事も許されていなかったのです。なので、船の漕ぎ方とかその他、習うに値するものは何も、教えられなかったのです。しかし私は毎日4、5時間もの間ずっと海をながめてボッーとしていたのです。私が40歳になるまでこのことは楽しみでした。浜辺に行ける時はいつでも波を見て、音を聞いたり、波を追いかけ、波から飛んで逃げたりするだけで十分でした。」そしてもちろん彼は、その見る事にはなにも有用なことや、役に立つ事などなかったことを教えてくれます。「私は貝とか海老、藻やクラゲの自然史などには全く興味を持ちませんでした。」

美術について何の思想、同時に説教でもなかったが、も産み出ささなかったラスキンを、モダニズムと同じ領域で考える事など出来るだろうか、と誰かが疑問に思うのが想像できる。その作者があまり道徳的でなく、という理由で、盛期ルネサンス絵画を悪いものだと評価したラスキン、しつこく教えを乞いたり、頼み込んだりを決して止める事が出来なかったラスキン

それにしても、ラスキンは海から目をそむける事は無かった。そして、この事はモネの『印象/日の出』、もしくはコンラッドの『ロード・ジム』におけるのと同じ役割を果たした。海はモダニズムにとって特別な媒介である。その完全な隔離、社会や自己包囲からの離脱、加えて何より視覚的な豊かさの上に高められ純粋な開放感、無限の拡がりと同一性が、海を無、感覚の喪失へと押しなべる。視覚とその限界。海を見ているジョンを見る。

そしてジョンが4歳で肖像画を描いてもらうのに座っている時があった。「私は行儀悪くしているとよく鞭打ちされたので、それによって習慣づけられた私の静かさは歳とった画家にはとても喜ばしいものだった。私はじっと満足げに座り続け、絨毯の穴を数えたり、袋から絵の具を絞り出したりしている様を見ていた。それはわたしにとってはとても美しい動作だった。しかし私はノースコート氏がカンヴァスにどのように絵の具を塗るのかには全く興味が無かった。」目的という領域からの眼差しの離脱についてのお決まりの言及がここにある。しかし、それに加えて最後の完成の一筆がある。これで全てのことが完成し、身動きせず静かで肉体から遊離した眼差しの主体が、等しく肉体をはがれた対象、すなわちイメージとなる一筆である。「私の静かさはこの老人にとってとても都合がよかったので、彼は私の父と母に頼んで、古典的な主題で子供の顔を描く為に、私を彼に向かって座らせたのだった。その絵の中に、豹皮によりかかって森に住む野性的な男に足のトゲを抜いてもらっている私の姿がだんだんと浮かび上がってくるのだった。」

ここに小さな少年、おもちゃもなく、泣いたり行儀悪かったりするとぶたれ、お菓子もなしで、柔らかく白いパンもない、彼の父はシェリー酒の売買に携わり