視覚の無意識

彼の動きは怪我をしないようにと制限され、彼の毎日は聖書を飽きずに読んで、母親が彼のために決めた句を暗記するというサイクルだった。そして彼の唯一の解放、家族の楽しみは優雅な旅行だった。母親と父親は美しい馬車に乗り、ジョンは馭者台で、サルヴァドールが馭者だった。パリ、ブリュッセル、黒森、ウーリ湾、ベルナルディーノ峠、コモ湖ミラン。もちろん、宿の部屋を予約や、生きのいい馬を手配したり、食事を注文したり、値段交渉をするのは馭者の役目だ。フランス語をすこしかじる以外は、ラスキンは完全に英語だけしかできなかった。
従って旅行は、ジョンラスキンの日常生活の媒介である同じ夢中の凝視からの解放ではなく、それへの溺耽なのだった。そして、彼はそれに喜んで、外国を旅する事を、「世界からの瞑想的な離脱」と呼んだ。当然、彼はこの離脱の優位には賞賛以外の何ものも持たなかった。「そこには何か特別に喜ばしいものがあった。現代のドイツ製のプレートをはめ、フランスで磨かれたような観光者達には考えられないだろう、皆の話す言葉が全くわからない外国の町を通り過ぎる喜びは。全ての声の音に対する人間の耳は従って完全公平になる。音節の意味によって、喉の流れるような、美しい声の質を捉え損ねることがなくなるのだ。また、身振り手振りや顔の表情がパントマイムの場合と同じ価値をもつ。どんな状況も旋律が流れるオペラのようになり、または風情のある、言葉にはいい表せられないパンチになる。」

私はベリィマンの映画「沈黙」を思い出す。革命の起きている外国の町に旅行するのだが、そこで話されている言葉が全く理解できないという話だった。これはラスキンが劇場の古くて陳腐で、小説風のイメージを使うのと同じようだ。彼の前に世界の偉大な舞台の融合のメタファーであるドラマを広げる。ラスキンはいわば聾唖で、景色も単なるパターン、色、線としか見えなかったということを除いては。演劇の連続性はばらばらになり、意味はそれぞれの方向に抜け落ちて行く。そして、それぞれ意味にはイメージがある。そして、それぞれのイメージは独立して、実際に自律している。

そして文章はこのように結ぶ。「私は自分の孤独が価値のあるものだ、もしくは一般的に人々が自分の母語以外の言葉を話せない方がいいとは思わない。それでも温和な無知はそれなりに優位な点もある。我々は冒険や、社交のために旅行に行ったのではなかった。自分達の眼で、自分の国内でさえも、物事を見て惑わされない事、それが私達が観察者として学んだ事だった。」

しかし今でも異論が聞こえる。「彼ら」のだけではなく自分自身のもだ。ラスキンの景色を眺める事は、自然全体をイメージを産み出す機械へと変容させる方法である。そしてこのような方法で、視覚映像の自律的な領野を確立するのだ。このことはその上で視覚的な意味が唯一開いている2つの質によって特徴づけられる。無限に多数であること、と同時に他のものと同一化することだ。より小さく、より詳細にたゆまなく分割可能な領野。フォンテンブローのアスペンの葉の一枚一枚までという不可能な限界。そして同時にパターンに組みこまれてゆく。『現代画家論』は他のどのアートにもまして、風景絵画が優れている事を証明しようとする。何故なら風景絵画の領域は正確に、純粋に視覚の領域だからである。しかし問題なのは、法則として美的な調和の理解を通して熟視の領野にはいってくるのは、形態だけではないからだ。ぼんやりとした静観の領野にはいってくるのは神である。ラスキンはこの調和は神の法の啓示であると主張しており、従って視覚映像の領野から得られるものは恩寵となる。

私はマイケルの著書の最後の一文、「現在性は恩寵である」というのを信じがたく、眼がくらむ感覚と共に読んだのを思い出す。これは私が理解したと持っていたものすべてを揺るがすようだった。信心に対する、健康的で啓示的ともいえる軽蔑、その代わりに、知性が純粋な自己憑依へと向かうことに対する信念、モダニズムが合理主義とともに誓った宣誓。そして、最後の文が偶然ではないことを示すために、マイケル・フリードは最初から用意周到だった。ジョナサン・エドワーズの、まさに今世界を作っている最中の神が存在しているかのように、全ての瞬間が我々を世界の前に配置する、という信仰についてのくだりがそうである。このことについては何も、マイケルのモダニズムに関する初期の言説の強固さとみあうものだとは思えなかった。ある時マイケルとフランク・ステラに関して話していて、彼が聞いて来た。「フランクがアメリカで一番偉大だと考えている人間は誰か知ってる?」もちろん私は知らなかった。「テッド・ウィリアムスさ」マイケルは私の沈黙をみてほくそ笑んだ。「テッド・ウィリアムスは人間で一番速くものが見られる。時速90マイルの球がホームベースを通る時、球の縫い目まで見えるんだ。そして彼は球を打って場外に運ぶんだ。だからフランクは彼が天才だと思っているんだ。こうやって、私は、チームに加わったのだ。マイケルのチーム、フランクのチーム、グリーンバーグのチーム、60年代のモダニズムの形成におけるメジャープレイヤー達のチームに。

白いしみのぼやけた姿が、純粋な接触、純粋な同時作用、純粋な視覚パターンになるほどに、素早く見る事、その源と触れ合う視覚。そして、速く、とても速く。その速度のなかに、抽出され高められた視覚性の概念が集められる。その視覚性のなかでは、眼とその対象が、驚くような速さで接触し、どちらももはや単なる肉体の支持に付随するものではなくなる。打者の肉体にも、球の球面の実体にもである。視覚は、純粋な瞬間の輝きへ、以前も以後もない分離された状態へと削りだされる。しかしこの純粋な現在性の動きのない爆発の中に、視覚のその対象物との関係と同様に、ここでまたその分離された形で示されているように、純粋な解放、純粋な透明性、純粋な自己知の瞬間も含まれている。マイケルの笑みにはフランクへの多大なる賞賛がある。フランクのメタファーの驚くべき的確さに。何故ならウィリアムズの強固な視覚のイメージが、クレメント・グリーンバーグがちょうど同じ頃、モダニスト絵画の自己批評的次元として輪郭を描いたものへの願望を思い起こさせるからだ。その規律が、独自の分離した経験の領域によって基礎づけられることによって正当化されるというモダニズム文化の野望への関与。このことは、狭めつつ、「手の届く範囲内でより強固にそれを確立する」規律という特徴的な方法を使う事によって達成されるべきものである。絵画にとってこのことは、抽象的に理解されたかのように、覆いをとり除き、視覚それ自体の状態を見せることを意味する。「絵画の平面の高められた感覚は、彫刻的な幻影や、だまし絵をもはや許す余地はない。」彼は書く。「が、しかし視覚的幻影は許されているし、またそうあるべきだ。表面に描かれた最初のしるしは仮想の平面性を壊してしまう。そしてモンドリアンの画面構成は3次元のある種の幻影をまだ示唆している。今になってようやくこれは厳密に絵画の、厳密に視覚的な3次元である。それは人がただ眼だけで、見て入り、その上を動く事ができるものである。