リプ

ギャラリーアーキペラゴで上映するリプチンスキーについての評論を紹介。

まずはウンベルト・エーコーによる

ズビグニエフ リプチンスキーのよる映画 「オーケストラ」
では、ショパンの葬送曲が、順々にあらわれてくるグロテスクな人物像とともに「見せられる」。その人々はとても長いピアノの鍵盤に手を置き、まるでその鍵盤がスクリーンに並んで移動しているか、もしくはカメラが無限の長さの鍵盤にそってトラッキング撮影しているかのように見える。
それを見る我々は確かに原曲を、あるやりかたで演奏しようとする試みにつきあうことになる。なぜならその人物達の身ぶりは曲のリズムによって決定され、背景にでてくるいくつかのものもの(例えば霊柩車)を含むイメージは、葬儀の印象を与えるように意図されているからである。
この映画を音を消して、登場人物の身ぶりと、カメラ自体の動きを追ってみた場合、ショパンの楽曲と非常に類似したリズムを我々も再現できるのではないかと考えるかもしれない。実際、私は音を消してみることははその効果を強めると考える。そして、リプチンスキーの作品はショパンの曲の優れた解釈であると正当にいうことができる。なぜならこの作品は我々にリズム、動き、そして根底にある感情の緊張(内容の感情に関わる部分)を捉えることを容易にさせる。それは我々が時折受動的に曲をただ聞くことによってより強い効果を持つ。しかし監督の描写選択は監督自身のものであり、ショパンに遡って関連づけることは難しい。したがってリプチンスキーの映画はよい使用例である。

ウンベルト・エーコー”Dire quasi la stessa cosa” (To say almost the same thing), (ほとんど同じことを言うこと)Milan, 2003からの抜粋 英語から訳出


そしてポール・ヴィリリオによる

かれはすべてを最後に一度に要約する。それはそれ自体で驚くべきことだ。私は最後の映画、人が死んでいくときに見る映画をみたという印象を若干持っている。全速力で自分自身を繰り返す芸術世界の歴史。、、、
もっとも興味深いのはもはや映画、ヴィデオ、コンピューターを区別することができないという事実である。これからは点と線の演算が、効果的に計り、形を与えるものとなっていく。あなたが片手にコンピューター、片手にヴィデオ映像を幾つか持っているということではなく、あなたはイメージの総合体を持っているのである。われわれに物を見させるのはコンピューターであり、すべてはそこここにある、、、

ポール・ヴィリリオ- THE RYBCZYNSKI PHENOMENON(リプリンスキー現象), MIT Press and ZKM/Center for art and Media Karlsruhe, 2003 英語から訳出