ザグレブ アニメ

shimatto2005-04-11

今月末(4/29,30を予定)に京橋ギャラリーアーキペラゴにて中欧映画上映会VOl.2の開催予定
今回は旧ユーゴスラビアクロアチアの都市ザグレブのアニメーションの上映

の資料
Ingo petzke
ザグレブフィルムによるアニメーションの40年

アニメーションとは、、、

アニメーションは硬直した形式に反抗する。自然な動きだけを表現するアニメーションは創造的なアニメーションにはなり得ない。アニメーションはその結果が創造的なものにならなければならない技術の過程なのである。アニメーションは、単に現実をコピーすることによってではなく、現実にデザインを与えることによって、絵に魂と生命を吹き込むことを意味する。生命は暖かみであり、暖かみとは運動である。そして運動は生命である。アニメーションは生温くもなり、沸騰するほど熱くもなる。冷たいアニメーションはアニメーションではない。まるでそれは死産した赤ん坊のようなものだ。アニメーションを作ることは、火花が散り、少し煙りがでるくらいまで木の幹を擦りあわせるようなことを意味する。1キログラムほどのアイデアと、50キログラムの才能、そして数千枚の絵をもって、それらをよくかきまぜるんだ、そして少しの運がないとあなたの疑問への正しい答えは得られないだろう。


1989年からヨーロッパで起った根源的な変化はいくつかの跡を残した。多くのことが改善された。がしかしいくつかの発展は不幸以上のものだった。そのひとつはそれまでの社会主義国家に存在した(芸術的に)強いアニメ製作会社が、実質的にほとんど一瞬にして消えてしまったことである。かつて、アーティスト達は定期的に仕事を与えられ、そのことによって社会主義の役に立つように作品を作るための時間を多く与えられた。一方で現在我々は無情な新資本主義やコンピューターテクノロジーによる再軍備がかつてのアニメーションを一掃してしまった現実に直面している。チープな日本の大量生産、明るく色付けられたディズニー世界の繰り返し、ルーカス/スピルバーグのようなもの達のハイテク製品は、皮肉や風刺、もしくは少なくとも彼らのものよりずっと芸術的な表現を、銀幕から締め出してしまうように脅している。非常に少数のすぐれたスタジオだけが新しい時代においても作品を製作している。しかし今後はどうなっていくかわからない。

もしオーバーハウゼン国際短編映画祭が小規模な回顧上映で、ザグレブフィルムの数々の傑出した創造的な40年間の作品を讃えることを決定したとしたら、それはオーバーハウゼンという都市と、この類い稀なスタジオとの歴史的に密接な関係だけが理由ではなく、消滅の危険にあるヨーロッパの東側からあるジャンルを召還することも理由の一つである。そしてその代表的存在がザグレブフィルムなのである。

有名な雑誌Kerempuhの出版者であり、ユーゴスラウ゛ィアのコクトーと言われるFadil Hadzikはクロアチアのアニメ映画のパイオニアであった。漫画家達やかれらの出版作品のおかげで、その雑誌はたいした成功を功め、その収入をHadzicはユーゴスラビア初のアニメマンガの製作に投資した。17分の長さのVeliki miting(大きな会合)は1949年に完成した。それは小人に疫病をうつされたカエルの話であり、それはようするにユーゴスラビアでのスターリニズムの流行のことである。そのようにしてHazdzikは政府の援助を得て、アニメ映画のスタジオであるドゥガフィイルムを設立した。ディズニーの影響を受けたスタイルのWalter Neugebauerが最初の製作グループのディレクターとなった。2番手のグループはユーゴスラビアの国民映画、国の風潮、気分を反映したようなものを作るため自由な指揮権を与えられたDusan Vukoticによって率いられた。全部で4つのグループが有った。ほとんど全員がアニメマンガのつくりかたについての情報を集めようと努力した。ユーゴスラビアはほとんど他の世界各国から切り離されていて、ある日Preston Blairの『アニメーションの方法』が郵便で届いて即座にある種のバイブルとなるまでアニメの作り方についての本は全くなかったからである。しかしもう一つおなじくらい魅力的な情報源があった。それはアメリカのお手本とはまったく違うチェコトルンカの人形劇映画であった。加えてその映画はかれらが追求していたのと全くおなじような国民性を持っていたのである。しかしこの実験は1年だけしか続かず、スタジオは閉鎖されなかればならなかった。アニメ映画を作るのは非常にお金がかかり、お金は学校を建てるのにより多く使われたのである。