追悼

Jean Rouch 1917-2004 A Valediction Michael Eaton

ジャン・ルーシュが87歳で死んだと言うニュースは疑いなくある独自な映画製作の方法の終わりを象徴するものである。しかしながらルーシュの死んだ状況は彼に非常に似合っていたと言える。かれはニジェールのお祭りに参加している途中、自動車事故で死んだということだ。そしてニジェールは彼が1947年に初めての映画を撮った場所だった。

しかし本当の悲劇とは、これを書いている時点で、英語字幕がついて見られる作品は殆どなく、さらに悪いことには、現在の映画製作に与えた彼の影響は殆ど忘れ去られてしまっていることである。

こういったことは必ずしも珍しいことではない。ジャン・ルーシュは50年以上も活動的に映画を製作し続て、120本以上もの多くの作品を作った。それは美学的にも、科学的にも比類なきものである。彼を単に「映画監督」と呼ぶことは、社会学者、哲学者としての彼の名声を無化してしまうことになろう。また彼を人類学者とレッテルを貼ることも、彼の芸術性、詩的特性を無視することになる。

ルーシュはおそらく「シネマヴァリテ」という単語の先導者として最も良く知られているだろう。シネマヴァリテとはジガ・ヴェルトフの「キノ・プラウダ」の直訳である。この言葉は「ダイレクト・シネマ」と英語に訳されたが、ルーシュの映画作りは単純に「壁のハエ」撮影(こっそりと気付かれないように観察すること)の概念に収まることは決してなかった。数十年前にはポストモダニスト民族誌学は記述の形式であることを認識したが、ルーシュも常に、観察者というのは映画撮影の行為から自分自身の存在をすっかり消してしまうことはできず、自分自身がその行為を定義する役割だと自覚していた。

彼の最初の傑作は1955年に撮られた「メートル・フ」(狂った主人)である。これはガーナのハウカ教のトランス儀式についてのフィルムである。当時まだガーナは大英帝国の一部であった。この短編映画の形式は、圧倒的なる技術的制約によってほぼ決定された。ルーシュは手持ちの16mmのカメラで撮影したのだが、このカメラは最25秒のショットしか撮れず、巻き取り式のテープレコーダーは別についていた。ので、ルーシュ自身が後からナレションを加えのだった。そしてこれが、後に同時録音が可能になってからも続けた、彼独特のヴォイス・オーヴァーの方式のはじまりとなった。しかしこれはまったく映像から遊離した疑似科学的「神の声」のようなものでは全くなく、むしろ他の世界からやってきて、未知のものを解釈、理解しようとしている人間の声である。この映画はすぐに、その時点でまだ、シュルレアリスト達との意見交換にとどまっていたフランスの民俗学会で、高く評価された。そして、ジャン・ジュネが戯曲「黒人たち」を書くヒントとなった。その戯曲は植民地の原住民が、入植者達の奇妙で理
不能な習慣をまねして演じるものである。しかし、祖国を離れパリに住んでいるアフリカ人の一部は、彼等自身とは違って、独立後の政治指導者にはなることのない下層階級のアフリカ人を描写することに拒絶感をおぼえ、強くこの映画を批判した。

アフリカのかつてのフランス植民地からのこのような両面的な反応は彼のキャリアを通してずっとあった。ルーシュ自身は常に、アフリカ人の協力者を育てる道具であって、そのうち何人かは映画製作においてきわだったキャリアを持つまでに至ったものもいる。彼はhit-and-run撮影してすぐ立ち去るようなドキュメンタリストではない。しかし、ルーシュが自分が撮影している文化を本当には理解していないと批判するものもいた。ブルキノ・ファソの映画監督ガストン・カボレの発言がルーシュの「ガーディアン オビチュアリー」で引用されている。
「木の枝が、長い間水中にあるからといってワニになるようなことはない」

しかし、北方のメトロポリタンからやって来たどんな映画監督が、ルーシュよりアフリカの文化を理解しようと戦っただろうか。またそうすることによって、我々自身の奇妙な存在方法に光をあてただろうか。私はルーシュの他に、このような哲学的、方法論的な誠実さによって特徴付けられる作品をつくったドキュメンタリストなど思い浮かべることは出来ない。

もともとはエンジニアだったルーシュは技術的にはいろいろな実験を行ってきた。2つの映画が特にヌーヴェル・ヴァーグに深い影響を与えた。1958年の「我は黒人」では中心的登場人物はアビジャンのスラムに住んでいるかもしれない、しかし彼等のニックネームやインスピレーションはハリウッド映画からきている。「観察的」なドキュメンタリーではなく、登場人物達は彼等の実生活を演じるだけでなく、彼等の夢も演じている。この映画は実在の場所で、主に夜にサイレントで撮影され、ウマルー・ガンダ別名エドワード・G・ロビンソンが即興でナレーションをつけた。結果として驚くほど複雑さと単純明解さを兼ね備えた作品となった。「革命以来最良の映画」とゴダールが呼んで、彼の初期の映画が、「我は黒人」の純粋性に近付こうとしていたのも不思議ではない。

おそらく世界的に最も大きなインパクトを与えた作品は「ある夏の記録」だろう。これは社会学者のエドガー・モーランと共に製作された。エドガー・モーランは映画スターについての先駆的研究者で、その研究はそれ以後の多くのもの達にとっての基礎となり、もともとのものとは少し違ったカルチュアルスタディーだった。この映画は「パリに関する」もので、初めての、同時録音が可能で軽くて静かな16mmカメラ、エクレアカメラの原型となるもので、撮影された。三脚からは外し、カメラマンの肩に乗っけられることで、映画は一度たりとも同じ様相を見せない。「ドグマ」はジャン・ルーシュ無しには想像しがたいが、ジャン・ルーシュがそのような騎士の絶対命令めいたものをどう思うかは想像に容易い。

この映画はルーシュがシネマヴァリテの実験と呼んだものだったが、すぐにルーシュは「真実(ヴァリテ)」を「トランス」という言葉に置き換えた。トゥトゥとビッティ(憑依を誘発させるために使われるドラムの名前からとられた)を撮影しているあいだ、トランス状態が最終的に達成されるのは、その参加者が自分達が撮影されていることに意識的であることが原因であることにルーシュは気付いたのである。したがって、エキゾチックな現象の観察者になるのではなく、映画監督はある種のシャーマンになり、その存在が異常な状態を喚起し、刺激するのである。そしてカメラは客観的な記録の装置ではなく、魔法の杖であり、変身の道具なのである。彼は決してその儀式に落ちる自分の影を編集して消したりはせず、それが彼の映画の不可欠な一部なのである。