沈黙

shimatto2005-09-28

昼はモネという名の子猫ちゃんと戯れ、夜になりジョルジュ・バタイユのマネ論「沈黙の絵画」を拾い読み。たびたび比較されるゴヤの5月3日と、マネのマクシミリアン皇帝の処刑について、
マネは主題の意味作用を抹殺したのだ。主題を抹殺すること、それを破壊することは、まさしく近代絵画の所業である、しかし問題は正確に主題の不在なのではない。多かれ少なかれ、各タブロオはひとつの主題、ひとつのタイトルを保っている、だが、この主題、このタイトルは意味をもたないのであり、絵画の口実に還元される。ア・プリオリにいって、兵士たちによって方法的に、冷酷に与えられる死は、無関心には不向きである。それはずっしりと意味をになわされ、激しい感情を生み出す主題である、しかし、マネはこの主題の不感無覚なものとして描いたようにみえる。観客はこの深い無関心の中を彼についてゆく。このタブロオは奇妙にも歯の麻酔を想い出させる。、、、『雄弁をつかまえ、そのくびを折りたまえ』という、あの第一の掟を適用したかのように。マネはいく人かの人物をポーズさせた。彼らのうち、あるものは死んでゆく人間の、あるものは殺す人間の姿勢を、とはいえ、まるで『一束の赤かぶ』でも買うかのように、何気なげにとった。真実なものであれ、偽りもののであれ、どんな雄弁の要因も取り除かれる。残るのはさまざまな色彩のしみと、ある感情がこの主題から生まれたにちがいないのだがという、戸惑わせるような印象である。それは不在の奇妙な印象だ。