ヒティロヴァにインタビュー

:今は何をしているのですか?
:その質問は私に何を考えているか聞くようなものです。私の仕事はうまくいかないんじゃないか、いろんな角度からそれを考えているのだけど、なかなか自分の仕事を信じることができない。「ひなぎく」によって起った騒ぎに疲れてしまったんだけど、ここ最近はEster Krumbachovaと一緒に新しい脚本を仕上げているところ。それで、自分が全く何もしないないほうがよかったんじゃないかと考えたりするのだが、よくわからない。自分だけじゃなくて、多くのものが無意味で、つまらない邪魔ものでナンセンスに思える。だけどそうじゃない。見返してみると、どんなに多くのエネルギーを奪われ、それでいて、長い目でみるといかにたいしたことがされなかったのかに突然気付くのです。本当に何もなされていない、で一体何のためだったのかもわからない。
私は自分の身がすりきれるほど働く人々がとても羨ましい。もし私が常に忙しく、あくせくしていたら、多分それはとても幸福だろう。いや、でも私は不幸では全くない。すくなくとも私には家族に費やせる時間がある。別に冒涜的になる気はない。私には違った世界がある。私はJaroslav(彼女の夫でカメラマン)ではない。彼にとっては仕事と私生活が複雑に絡み合っている。彼の場合、仕事はなんにでも突っ込んでくる。私の場合は全くそうじゃない。でも何故か映画の仕事は、休憩のちょっとした時間以外は、この映画から次の映画へとスムーズに進んでいけるようにそのようになされている。だけど、明らかに、他のいろんなことが映画制作より重要だったりする。時には物事がすべてその目的のためになされているように見える場合があるが、実際はそうじゃない。人は仕事を得るために、ずっと永遠に闘うものだ。だから働いて働いて、新しく次から次へと何か試みて、突然、何か別の可能性があるのにそれを諦めていることを、自分自身から常に隠していることに気付くのです。多分、私達はもう疲れて駄目になっているのに、気付いていないだけなのかもしれません。

今私は脚本の仕上げをしているところです。Krumbachova大部分を書き、一部を私が書いたもので、素晴らしい出来です。これは徹頭徹尾本当に私が気にいった初めての脚本です。(「楽園の果実」チェコとベルギーの共同製作)それでも、Esterと私は、映画自体は”書く”事はできないとは分かっています。映画は多くの要素の相互依存であり、それら全てを意識して、最初から考えたとしても、脚本に含められるのは、言葉で表現出来るものだけです。そして言葉で表現できるものは非常に限られている。そして前もって言葉の上で行う作業がある段階までくると、映画自体に取りかからなければならなくなる。常に何らかの失敗、間違いは起る。でも芸術において、前もって何が間違いか決めつける事は難しいし、大抵の場合全く不可能である。映画産業のなかでは、人は信用され、単に仕事の機会が与えられることが必要だと分かっている人間は少ない。私達が尊敬するのは、私達のことを疑っているかもしれないけども、門戸は解放されていなければならないことをわかっている人々です。
第一に偏見から自分自身を解放することです。最も大事な事は自分をこえる事、ありきたりなことに取り組まず、さらに深く追求することです。創造的な事というのは、自分がまったく知らない事を徐々に発見しつつある段階ではじめてなされるのです。前進の為の一歩一歩はたゆまぬ多大な努力を必要とします。ある人達にとってはハードルを飛び越え、障害物を取り除く事は麻薬注射をうつようなことのようです。でもそれでは本当に大事なものを見失ってしまいます。
自分自身を解放すること。これは創造過程についてのみいえることではありません。過去の経験を振り返ってみればわかるはずです。離れてみるとどんなにあなたのまなざしが突き刺すようなものであったか。
ひなぎく」を完成させてもう一年になります。娘のTerezkaは頭一つ分背がのびました。これからは娘を物差としてつかうことになるでしょう。映画一本に頭一つ分。そしてお休み。去年、わたしたちは休暇をとることができませんでした、その前の年も、そして今年も。すべて「ひなぎく」のおかげです。「明日には、明日には、明日には、、、」といい続けて最後にはみんな街を離れていってしまう。で、相手に振られてしまった恋人のように座って待ち続けるのです。座って待つこと1年、2年。時間はどんどん過ぎます。いったい何をしているのか?何もしていない。カレンダーには毎日かなわなかった希望の長いリストが書き込まれます。