ヒティロヴァにインタビュー2

外国のプロデューサーと仕事するのはどうでした?


かつて誰かが外国のプロデューサーと一緒に仕事して駄目になったと聞いたとき、私にはそれがよく理解出来ませんでした。全ては契約の問題だと思うのです。誰であろうと、私に合わないことを強制することは出来ません。それに加えて、私は常々、社会主義の映画は、資本主義的製作に欠けている創造努力を常に念頭に置くべきだと思っています。たまたま弁護士でもなければ、これは契約書に折り込むことが難しいので、プロデューサーが慣れている言葉ーそれはお金に関する言葉ですーで表現する必要があるのだろうと自分に言い聞かせています。すなわち、自分の自由を彼らの投資という方法によって確保するということです。この投資には私達側からは何の保証も与えられないものなのです。もし誰かが私達に真に創造的な仕事をさせようとするのなら(私達もそうじゃない仕事の契約はするつもりはない)、私達を信じてもらわないといけない。そしてどんな場合でも私達の仕事を訂正しようとしたり、別のものにかえようとする権利など無いことをわかっていないといけない。なぜなら自分自身に誠実であることが唯一の責務である人間を信用するということはそういうことだからです。たとえ大金をもらっても、自分自身には誠実でなければいけない。
私達のプロデューサーはそれが彼の望みだといってくれた。それでも少し経つとお金のことが気になりはじめ、考えをかえたのです。脚本に取りかかっている最中に、彼は商業的観点からものを考えるように私達を促し、芸術的目的を取り除くつもりは無い、お金の儲かる映画を作ること、これこそが芸術ではないか、などと言いはじめたのです。しかし私達はみずからの品性の無さを見せつけたのです。私達は利かん坊で、反抗的で、最初に彼が私達に持っていた信頼を裏切らないことを密かに心に決めたのです。そして脚本を自分達のやりかたで完成させたのです。つい最近ニューヨークにいたとき、私の作品に真剣に興味の有る人々がニューヨークにはいると言いに来てくれた人達がいました。はじめに彼らはチェコスロウ゛ァキアの映画輸出会社のアメリカ局長とおぼしき人物を紹介してくれ、交渉ごとをすべて手配してくれました。こういった仕事が1956年にはすでに存在していたことを初めて知りました。映画製作だけでなく、流通に関する仕事です。まだ彼らは何も結果を残していないのに、自信を持っていることに私達は驚いたと彼等に言ったところ、過去にいろいろな障壁があっただろうが、もはやそんなものは存在しないのです、と私達は彼等にそういわれました。そう言われて私達はもっと驚きました。しかし結局のところ何も起りませんでした。障壁は明らかにまだ存在していたのです。
別のプロデューサーは私達をもっとも高い通りにある、最も高いレストランの、最も高いランチに招待してくれました。そこで私達は彼のオファーを受ければ完全に自由に出来ることになったのです。彼の要求は、カレル・チャペックの原作で、ひとり有名な役者を起用し、彼の奥さんが映画音楽を担当することでした。彼女もそこにいて、すでに作曲した歌をそこで歌いだしました。私がそこで分かった単語はkarlovy vary karlovy varyの2単語でした。つまりそれは私には手に負えないほどの自由だったのです。どこであっても、やるべきことは真に映画を愛している人と仕事をすることだけなのです。もしそういった人々がいなくなってしまって、映画が別の観点の対象となってしまったら、ここでも同様に働けなくなってしまうのです。ここででも映画のまわりには映画に全く興味がなく、何も映画について知らない人々がいるのです。わたしはかつて映画を生計をたてる手段にしたくないと言いました。おぼえていますか。私の仕事仲間でさえ私をからかいます。だけどもちろん、わたしは自分の仕事にたいしてお金をもらいたくないというわけではありません。ただどんな仕事も引き受けるわけではないという意味です。バカ正直に自分の思ったことをそのまま言っただけです。こんなこともうしたくない、ってね。