今東京写真美術館で行われている企画展「明日を夢見て」はアメリカの20世紀前半の写真を集めたものです。
ルイス・ハイン、ジェイコブ・リース、ベレニス・アボット、ドロシア・ラング、ウォーカー・エウ゛ァンス、ベン・シャーン、フォトリーグといった面々。

この展示のパンフレットでは
「写真で社会を変えられる」と信じた写真家たち
ソーシャルドキュメンタリー写真
という言葉が並びます。

彼女、彼等が本当に写真で社会を変えられると思っていたのかどうかは本人に聞いてみないとわかりませんが、そのような安いコピーをつけることは簡単では有りましょう。
どのような意図でタイトルが「明日を夢見て」なのかはわかりません。しかしそのタイトルが安易であるばかりではなく、これらの写真に対して冒涜的ともいえるのは確かです。

前回のストローブ=ユイレのところでも触れましたが、人が分かるのは現在と過去のことのみであり、未来のことはそこから導きだされることである。

ルイスハインの働く子供達を撮った写真にしても、小さな子供なのに働かされて可哀想だとか、悲惨さなどとは程遠いイメージで、僕の目には子供達は非常に楽しそうとまではいいませんが、貧困のイメージはそれほどないです。印象的だったのはFSAの写真家、ウォーカー・エウ゛ァンス、ドロシア・ラングの写真です。ウォーカーエウ゛ァンスの写真ほど「明日を夢見て」というタイトルにそぐわない写真はありません。言葉で説明するのは難しいのですが、見れば簡単にわかります。特にそばに展示してあるドロシア・ラングの写真と比べてみるとわかりやすいのではないでしょうか。見るとみてわかるというのがまさにエウ゛ァンスの写真であり、エウ゛ァンスほど写真を写真というメディアとして確立しようという写真家はあの時代にはいませんでした。
つづく。

すばらしく革命的なアートなどというものはない。なぜならそのようなアーティスト達は現状今どうであるということについてではなく、どうなるべきかということについて言い争っているだけだからだ。 アンドレ・マルロー「希望」
希望 上 (新潮文庫)