the deterritorialization of language

「翻訳の不可能」は、テクストの翻訳は実際すでにそこにある文章の書かれた言語からの疎外を現すという全く反対の認識を産み出す。言語の表すものとそれが意味するもの、シニフィエシニフィアンの間の溝は、自分自身の母語においては見えにくいかもしれないが、避けられない翻訳の誤りによって明るみに出される。ストローブ/ユイレが、映画において行動からテキストを距離をおいて遠ざける方法には似たような効果がある。特にドイツの文学作品に関して言えば、そのような文学は必ずしも、一般的なドイツ語の語法に安住することはなく、さらにまったくドイツに属するものでもないということを、彼等の映画は露呈させる。ルイ・セガンが言ったように、「映画はテクストの脱出」である。
ヘルダーリンにとって、翻訳の二重の不可能とその価値は、主たる興味の対象であった。そしてストローブ/ユイレによる作品の提示は、明白なコミュニケーションとしての言葉の機能からの言語そのものの脱却というものに関して、さらなる層を加える事になる。ドイツ語を異化し、テクストの質を明かにさせるために、ストローブ/ユイレはその言語の話され方を「作曲」する他にも、たくさんの装置を使う。

"landscape of resistance" Byg,Barton